STRANGULATION

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  STRANGULATION  

 その最期を、後悔しているというわけではないのだ。衆人の罵声を浴びながら処刑されたことも、半ば騙されて捕らえられたことも、結局は生きているうちに自分の願いを叶えられなかったことも、もはやどうでも良いことであった。
 否、正確には、そこまでの判断力すら既に失っていたのである。晩年の彼にとっては、幼子たちを嬲り切り刻むその瞬間だけが、形のある唯一の現実であり、「あの時」以来胸に抱いていた切なる願いもまた、気付けば大きく変容し、境界すら曖昧なものとなっていた。
 彼が処刑されたのは、季節が秋から冬へと移り変わる頃の、哀しくなるほどに晴れた日の早朝だった。だが、処刑台を取り囲んでいた人々の顔も姿も、手に掛けた幼子たちの親が泣き叫ぶその悲痛な声も、直接関わりの無かった人間たちの薄っぺらい罵声も、今となっては思い出すことすら出来ない。確かにそこに在ったはずの数々は、一部を残して記憶からするりと抜け落ち、消え果ててしまっている。
 鮮烈な記憶として焼き付いているのは、晴れ上がった空の遠さと、ぽっかりと浮かぶ縄の結び目と、そして、あの愛しい大切な少女への深い思慕の念である。
 そこまで考えて、冬の夜道を己の主君と共に歩く男は、そっと自分の首に手をあてた。もうひとつ、纏わりつく縄の感触もまた、未だそこに残っているのだ。



     *     *     *



 工房を出てから、男は青年に導かれるままに人気のない道を進み続けている。青年はこの町の出身ではなく、これまで全国各地を転々と移動する気ままな暮らしをしていたようだが、土地感の無い場所でもすぐに地理を把握できるある種の順応性を備えているらしく、深夜の狩りには最適な人目につかない移動経路を即座に見出すのが得意だった。全くもって、人を殺すには申し分のない才能である。
 これからの惨劇に思いを馳せているのか、上機嫌に鼻歌を歌いながら歩く傍らの青年をちらりと見て、男の思考は再びかつての記憶に沈んでいく。
 思えば、ぷつりと命が途切れる最後の瞬間まで、脳裏に浮かぶのは彼が崇め讃え心から愛した少女の姿であった。自分のことなどではなく、己の犯したその所業でもなく、強欲な弟でもなく粗野な祖父でもなく、他人よりも心が離れてはいたが曲がりなりにも十数年を共にした妻子のことでもなく、かつて与えられた栄光でもなく――、出会ってから失うまで僅か二年、共に並び歩いたのはそれよりも更に短い月日に過ぎなかった一人の少女の、そのあまりに残酷な末期の姿であった。首を締めあげる縄の痛みも間近に迫る死の足音も、あの少女が味わった屈辱と絶望を思えば、男を恐怖させるに足るものではなかった。後悔や慚悔などはなかった。ただ、無念であった。最後にもう一度だけ、一目で構わないから、戦場で祖国の旗を掲げ、死にゆく兵士に救済の祈りを捧げる、高潔で神聖なあの姿を見たかった。
「ねぇ、だーんなっ!」
 明るい声に、ふと我に返って目を向ければ、青年が男の前に立ち、下から顔を覗き込んでいる。気付けば、辺りは既に閑静な住宅街だった。手入れされた植え込みや煉瓦造りの塀が立ち並び、子供たちの声で溢れ返っている日中の光景を想像するに容易いが、とっくに日付もかわった深夜である今、往来には人も車も見当たらず、ぽつりぽつりと点在し周囲を照らす街灯に蛾が群れ集いさざめくのみである。
「まずは、あの家にしよ?」
 青年の華奢で細長い指先が、似たような家屋のうちの一つを指し示している。玄関の横には、補助輪が付いた小さな自転車と遊具が立て掛けてあった。
「わかりました、リュウノスケ」
 男は半ば上の空で返答をしながら、青年の白い指をじっと見つめていた。いくら優美で細い指をしているとはいえ、男性の手である。あの少女の手と比べると、全く同じであるとは言い難かったが、それでもその細さと白さ、切り揃えられた爪は、あの可憐な手を想起させた。生涯にたった数度しか触れることのなかった少女の小さな手を。
 ――例えば。
 早速駆け出して行った青年の背をゆっくりと追いながら、男は考える。例えば、首に絡みついたあの縄が、華奢で小さいあの少女の手であったのならば、数百年の時を経てなお色褪せぬ強い願いを抱き、再びこの世界に降り立つことなど、無かったのかもしれない。



     *     *     *



「あー、やっぱりひと仕事終えたあとの食事は良いよなー。ねぇ、旦那?」
 薄暗い居間のソファに腰掛け、テレビから流れる深夜のニュースを見ながらシャンパンを飲んでいた青年が、真横に座る男を見上げて話し掛ける。足の低いテーブルの上には、見るからに高級そうなシャンパンのボトルのほかに、ハムやチーズをのせた皿などがいくつか並んでいた。
「ええ、そうですねぇ」
 一方の男は、奥の棚に置かれたアンティークの蓄音器や古いレコードディスクを物珍しそうに見ていたが、声を掛けられるとすぐに振り向き、穏やかな顔で青年の言葉を肯定する。その様子は、仲睦まじい家族の団欒か、気心の知れた友人同士の談笑か、性別の括りを外すのであれば恋人同士の睦言のようですらあった。ここが二人の家ではなく、本来の家人は全員が床の上で無残な骸となっていることを除けば、おかしなところなど何一つない光景である。
「旦那も飲む?」
 男は普通の人間ではなく英霊であるため、食事などは必要ではなかったし、また、連日の殺戮によって人間の――、それも最も嗜好する幼子たちの魂を得ていたので、既に充分な量の魔力を蓄えることが出来ていたのだが、無垢な表情でシャンパングラスを差し出してくる青年の好意を無碍に断る理由もない。自分でも意外であったのだが、男は、存外にこの青年のことを気に入っているのだ。
 グラスを持つ青年の指ごと、己の手で覆うように掴み、そのまま口元に持っていって酒を飲み干した。力を込めれば簡単にぽきりと折れてしまいそうな指の細さは、あの少女と同じである。酷く感傷的な気分になり、少し強く握り込んでしまう。青年が痛みを訴えると同時に、その指からは力が抜け、空のシャンパングラスが床に落ちた。
「ごめん、落としちゃった。……旦那?」
 グラスが割れる音など気に留めず、掴んだままの青年の指に口づける。冷たい牢越しに、少女の身体を抱きしめ、その指先に口づけたときのことを思い出す。あの指も、あの痩せた身体も、燃やせばあっという間に灰になってしまった。この指も、簡単に折れ、千切れ、潰れてしまうのだろう。人の身体はかくも儚い。
「旦那、酔っぱらった?」
 くすくすと笑いながら、今度は青年がその細い指で男の唇を撫でる。女性的でしなやかな、何十人もの血に染まっているとは到底思えぬ白い指である。されるがままに任せていると、青年の指が歯列の隙間から口腔へと這入ってきた。何か喋ればその指を食い千切ってしまいかねないため、楽しげな表情を浮かべる青年の顔を黙って眺める。
 そして代わりに、青年の指に舌を這わせ、幼い子供の指を一本ずつ噛み切ったときのことを思い返す。あの少年は、どのように殺したのだったか。指を噛み切っては治療してやり、優しい言葉を掛けて添い寝をし、しかし翌日にはまた同じことを繰り返し、そうやって何日もかけて嬲りながらも最後には飽きてしまい、塵屑のように捨てた気がする。
 今、不思議なことにこの青年の指を噛み切る気にはならなかった。勿論、青年の年齢が、男が好んで犯してきた幼子たちよりも遥かに上であるからかもしれないが、それを差し引いても、このほっそりとした白い指を傷つける気にはなれない。それは、目の前のこの青年こそが自分の主君であり、令呪を宿しているからなのか。ならば、彼が己の主君でなければ、自分はこの口腔を蠢く細い指を躊躇いなく噛み砕くのだろうか。
「もしかして、こっちの方が良かった?」
 不自然に舌足らずな口調の青年が、ふわりと男の膝に跨ってきた。体重はそう変わらないはずだが、体格の違いのせいかその身体はとても軽く頼りなげであったため、腰に手をまわして青年を支える。細い指が口から離れ、代わりに青年の顔が近づく。生前に東洋人を見たことはなかったが、この地で見かける他の人間と比較する限り、青年の顔はこの人種においてかなり整っているほうなのだろう。そのようなことをつらつらと考えていると、青年の唇が己のそれに重なった。そして、彼の舌と共に、柔らかな何かが押し込まれる。
「……女のは、嫌い?」
 咀嚼すると、肉片であることが分かった。人間の肉の味だった。先ほど手違いで殺してしまった少女の頬肉だろう。勿体無いからと、死んだ少女の肉を少しばかり切り取って皿に載せ、テーブルに並べておいたのだった。
「いいえ、好きですよ。貴方がくださるものであれば、何でも」
 自分で言ったその言葉が、本心なのか甘言なのかは、自分でも分からなかった。だが、その言葉に青年はにんまりと笑う。可笑しいような照れたような、そんな表情だった。そして、青年はその笑顔のまま、何を思ったかしなやかな指を男の首に絡みつかせる。見えない縄が未だ巻き付くその首を、静かに優しく締め上げる。
「旦那。首絞めて殺したこと、何回ある?」
 男は答えに窮した。殺した人数すら覚えていないのだ。そもそも、数えきれるものではなかった。大体において、首を絞めるという行為は、殺すまでの種々の過程の一部、または拷問の一手段でしかなかったような気もするし、一方で、この手の下で脈打つ血の流れが止まる瞬間を何度も感じた気もする。
「俺の手じゃ、旦那のこと殺せないね……」
 縄ではなく、囁く青年の白い指が、首にまとわりついている。青年と同じように細い体であればまだしも、男はかつて騎士として名を馳せたのだ。天性の軍事的才能と恵まれた体躯もあり、数々の敵を討ち取ったし、少なくとも戦場では――、あの少女を守り支えることも出来た。晩年はともかく、少なくとも英雄と褒め称えられるだけの武勲をあげた男を締め殺すには、その指は細すぎる。
 だが、殺せないと分かっていても、否、分かっているからか、青年は手を緩めない。今まで男の首を締め付けていた透明な縄の感触を上書きするかのように、青年の指に徐々に力が入る。元よりこのような行為では死ぬことはない上に、青年がいくらその細い指に力を入れたところで、僅かな痛みしかもたらされることはない。死ぬには程遠い圧力である。だが、心地よかった。あの日、男の首を締めあげた縄の感触よりも余程、落ち着く痛みであった。
 男の膝に乗り、細い指で男の首を絞める青年。もしこの様子を誰かが見たとしたら、何の光景だと思うのだろうか。だが、ここに在るのは、物言わぬ骸と、魔術による暗示を掛けて連れ去ってきた数人の子供たちだけである。死体の半開きの目は、黒く濁りもう何も映さない。子供たちは、虚ろな目をしたまま何の表情もなく部屋の片隅に座り込んでいる。

 誰も見ることのない光景ではあったが――月光によって血塗れの床に投影された2人のシルエットは、懺悔する咎人とそれを救済する異教の使者のようであった。



(了)
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