戦場に、累々と。

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  戦場に、累々と。  

 まこと、壮絶な影絵であった。
 黒い無数の手が、ぬらり、ぬらり、と揺れ動いている。ある手は手招き、ある手は苦しみ、ある手は悶え、行灯と蝋燭の光で煌々と照らされた襖に、絶え間なく蠢く黒い影を描いていく。手招くは、地獄へ引きずりおろそうとする鬼の手か。悶えるは、地獄から這いずりあがろうとする罪人の手か。種々の手に囲まれて、か細く美しい声で咽び泣いているのは、襖越しにもはっきりとわかる見目整った美しい横顔の女だ。
「やれ、苦しいか。第五天」
 襖越しに名を呼べば、ぴたり、とすべての黒が停止する。一瞬の間をおいて、ずるり、とすべての手が一斉に此方をむく。
「その手で、箏でも爪弾くか? ぬしが奏でるは、さぞ物悲しい断末魔であろ」
 喉の奥で笑えば、その音に応えるかのように、まがまがしい手が、べたり、べたり、と襖に黒い痕をつけていく。それはさながら日記帳に投げつけた硯からこぼれる墨のようであった。黒い痕は、まるで血のように、ゆっくりと広がり、雫を垂らし、柔らかい紙を溶かしてゆくのだ。
「哀しいか。何もかも失ったぬしと、何も手に入れられないわれと、どちらが不幸であろうな」
 黒い手によって裂かれ溶けた襖の合間から、息を飲むほどに美しい女の顔が覗いた。そして、ゆっくりと、桜色に染まる薄い唇の端が上がり、微笑みの形が作られていく。なのにその顔は、笑いながら泣いているのだ。ひたひたと嗤いながら、それでいて平坂で迷う亡者たちに呼応するかのように啼いているのだ。この世を見ないその目は、長い睫に縁取られ、涙でつやつやと濡れているのに、ずっと覗きこんでいると吸い込まれ閉じこめられてしまいそうなほどに真っ暗で、まるで波に濡れざらつく真夜中の砂浜のようである。
 まこと、凄惨な虚無であった。



     *     *     *



 夜が怖いのだと、かつて虚無の女は言った。だから灯りを絶やさないで欲しいのだと。金ヶ崎でこの女と出会い、その内を満たすどろどろとした絶望と不幸を見初めた時のことである。
 そしてこの城に連れてきて以来、この女は、戦に駆り出されぬ日は、日がな一日貸し与えた部屋に閉じこもり、夜が明けぬと咽び泣いている。部屋に用意してやった行灯や蝋燭の火は絶えることなく明々と燃え、その灯りは女のぞっとするほどに美しい顔を常に照らし、磁器のように真っ白な肌に仄かに暖かく柔らかい色が差し足されるのである。それは元より色欲をそそる憂いを帯びた女の顔を余計に煽情的なものに見せるため、不埒な輩どもが手を出そうと近寄ることもあったようだが、そのような男たちは一人残らずあのぬばたまの闇の中に引きずり込まれ、砕かれ裂かれて哀れな肉片に成り果てた。
 しかし、何人もの男を殺しても、虚無の女はそのようなことは些事に過ぎぬとでもいうように何も気に止めぬそぶりで、黒い手と戯れ、咽び泣き、童歌を歌い、時折か細い悲鳴をあげて音のしない誰かの名を呼ぶ。もしかしたら、己の影から湧き出る黒い手があまたの者をすりつぶし、一人残らず根の底へと連れ去ってしまっていることに、気付いてすらいないのかもしれぬ。
 だが、時として淫靡なそれのように聞こえる咽び声も、もの悲しく廊下に響きわたる童歌も、すべて今日で終わるのだ。
 破れた襖紙の隙間から覗く作り物のように美しいその顔は、しっとりと微笑みながら、真っ黒な虚空の目を此方に向けている。
「聞くがいい、第五天。ようやくこの日が訪れた。あの空に屑星が満ち充ちて、この世に無数の不幸となって落ちゆくのよ。まこと、愉快、ユカイよな」
 現世を半ば捨てた女の耳に、この声がまともに届いているとも思えないが、それに構わず話し掛ける。この部屋に連れてきて以来、毎日女のもとを訪れているが、日に日に会話は成り立たなくなっていく。日毎に女の背負う虚無は膨れ上がり、今や張り裂けんばかりの絶望を孕んでいるのだ。もはや、この女は、ただの見目美しい人の皮でしかないのだろう。内側に、虚無と絶望と、濁った三途の川の水と、黒い涙とが詰まっているだけの、人の皮袋に過ぎぬ。
「この明けることのない夜に、あまたの呪いが篠突き落ちる。憎らしい人々の幸福が、頭蓋から零れ出る……」
 もはや独り言のように呟いた時、女は突然頭を抱えて俯いた。震える唇から、悲痛な声が漏れてくる。
「夜……いやよ……夜はきらい……光もきらい……闇もきらい……みんな、みんな嫌いよ……」
 大方、明けることのない夜、という言葉にでも反応したのであろう。夜に怯える女は、夢と現の隙間に閉じこめられ、未だ醒めることのない悪夢を見続けている。
「そう言ってくれるな、第五天。われは夜が好きよ。月の光は、われのこの身を焼かぬゆえ。しかし、ほら見るが良い。宵闇を嫌うぬしのため、こうして灯りを持ってきた。だから、ここを開け―……」
 言い終わる前にぬらぬらと蠢く黒い手により雑に襖が開け放たれた。濁り霞んだ己の視界に、柔らかな光に照らされ闇色に染まる人形の女が、しどけなく座り此方を見つめているのが映った。
 さながら、妖艶な生き人形である。死に近い女であるからか、黒い着物がよく似合う。金ヶ崎から連れ帰る道すがら、普段着などもう一つも持っていないと言っていたから、城下でいくつか着物を仕立ててやった。そのうちの一つであるこの黒い着物には、艶やかに散る彼岸花の刺繍が施されており、それもまた女によく似合っていた。
「まこと、空漠の漆黒よな……」
 彼岸花を纏った女が、此方に手を伸ばす。無論、病に蝕まれたこの身に触れるためではなく、この手が持つ行灯に触れるためである。
「灯り……蝶々さんの灯り、すき……。とてもきれいなの……やさしくて、かなしくて、決して市を焦がさないから……」
 痛む足を引きずって女に近寄り、女の膝元に、持ってきた手持ち行灯を置いてやる。女は、行灯の薄紙にそっと触れ、少しだけ微笑んだ。
「ねぇ、蝶々さん、市は、このひかりが大好きなの……。油の火はきらい……影がたくさんやってくるの……だからきらい……。それにね、油の火には、虫が落ちていくのよ……たくさんたくさん落ちて、死んでいくのよ……まるで、人みたいだわ……死んでゆく、あの人たちみたいだわ……。みんな死んで、いくさばに、つもりつもっていくのよ……」
 ぶつぶつと悲しげに呟く女から視線をはずして、部屋の隅に座った。
 そして、いつものように部屋の中を見渡す。調度の整ったこの部屋に初めて連れてきたとき、女は灯明の火に酷く怯えていた。油を吸って燃える鋭い火は、部屋の片隅に強く濃い影を作る。その影を恐れていた。それなのに、灯りを置かぬと今度は暗闇が怖いと啜り泣くのだ。何度灯明を持っていっても、いくつそれを並べても、女はかぶりをふって子供のように厭々と泣く。そして女を囲む黒い手が、ぱたりぱたりと台を掴み倒して火を全て消してしまう。だから、穏やかに燃える蜜蝋の蝋燭を揃え、女の部屋を訪れて声を掛ける度に、薄紙が貼られた手提げ行灯を床に並べてやった。行灯の薄紙には繊細な模様や季節折々の草花が梳き込まれており、女はそれを眺めては無邪気に喜んだ。
 そうして気付けば、女の部屋には行灯と蝋燭がぎっしりと並び、いかなるときでも煌々と室内を照らし続けるようになっていたのである。闇を纏いながら光に包まれる女の美貌は、部屋を覗くものを魅了し惹きつけた。灯りに引き寄せられる蛾のように。ならばこの女に構い、世話を焼く自分も、群れ集う蛾の一匹なのだろうか。



     *     *     *



 そこまで考えたとき、また女が顔を覆ってさめざめと泣き始めた。よくあることだ。泣いては笑い、笑っては泣く。感情の振り幅が大きいのだろう。少し、あの男に似ていると思った。嘆きと怒り、お互いが陥るそれら感情は、方向こそ違えど、起伏激しく揺れ動く様が似ている。だからなのだろうか。あの男を放っておけぬように、この女を捨ておけず、闇色の灯りを湛えたこの女に引き寄せられるように、月光を映すあの男に吸い寄せられる。
 女は、小さくしゃくりをあげながら泣き続けている。
「市、うれしいの。蝶々さんがこの灯りをくれるから、うれしいの。でも、うれしいのにかなしいの……蝶々さんの明かりで、どんなに照らしても照らしても、市の夜が終わらないの……あかるいのにまっくらなの……」
 斯様に明るいこの部屋には夜など来ないはずなのに、この女そのものが永劫の夜に捕らわれているのだから、いくつの行灯を飾っても、何本の蝋燭に火を灯しても、結局は何の意味もないのだろう。哀れな女だ。心の殆どが壊死しているのに、それでもなお、現世に引き留められている哀しい女。そして自分はその女に引き寄せられる、惨めで矮小な毒虫なのだ。
「気に入らぬか? その灯りでは、闇夜を醜く照らすだけか?」
 声を掛ければ女は顔をあげ、ゆっくりとかぶりを振って答える。頬を伝う涙ですら、その美しい顔を飾り立てている。
「いいえ、きれいよ……とてもきれい……市、大事にするわ……市の、たからものよ……。この部屋の灯りも、ぜんぶ、たからもの……大事な大事な、蝶々さんのひかり……」
 黒い着物から覗く女の手が、先ほど渡した行灯を愛おしそうに撫でている。腕の良い職人を招き、秘かに拵えさせたものだ。出すところに出せば、調度品として大層な価値が認められるのであろう。亡き太閤であれば、喜んで買い付けたに違いない。だが、この手の込んだ繊細な行灯は、目の前にしどけなく座っている女の、その優美で細い指と形の良い愛らしい爪にこそ相応しい。
 ふと、女の目が、先ほど破った障子に向けられた。そして、初めてその裂かれた紙に気付いたとでも言うように、酷く悲しい顔をした。
「あ。ごめんなさい……。これ、破ってしまったのね……。市が破ってしまったのね……。ごめんなさい。ごめんなさい……。これじゃあ、もう、影絵遊びが出来ないわ……」
 ごめんなさい、ごめんなさい、と女の涙に濡れた声が震えながらこだまする。不思議とその音は、他の女や幼子のそれとは異なり、煩わしいものでも不快なものでもなかった。だから、猫撫で声で笑いかけてやる。さぞ醜い笑み顔であろうと、自嘲しながら。
「もう、影絵遊びはせぬ。これから、外に行くゆえな。ぬしも、ついてきてくれるな?」
 感情の振り子はまた揺れ動き、女が嬉しそうに笑い返す。澱んだこの心すら奪うほどに、まこと美しい顔である。
「お外に行くの? お散歩をするの? 行くわ……市、行きます。市は、蝶々さんのこと、だいすきだから。だから、蝶々さんのために、行きます……」
 もしこの女が正気に戻ったら、醜いこの姿を見て、掠れしわがれた声を聞いて、何を思い、何を言うのだろうか。現世に生きる彼女からもたらされるのは、拒絶か、あるいは、憐憫か。恐怖か嫌悪か嘲笑か。よもやあの男のように、何にも気を止めず、何も拒絶せず、その全てを認めてくれることなど、あるまい。
 そこまで考えて、何かもやもやとした言い表せぬ感情に捕らわれ、女から目を背ける。
「これより、関ヶ原へ赴く。徳川率いる東軍に、数では勝てぬゆえ、早々に陣を敷くのよ。宵も深い今のうちに出立せねばならぬ。さぁ、ぬしも早々に準備をしやれ。われは、先に外で待っ――」
「ねぇ、蝶々さん」
 またもや言葉を遮られた。遮ったのは、先刻と同じ襖の音ではない。行灯をかざして黒い手と戯れる女の、透き通った声であった。その声は、これまでとは異なり、震えもせず、揺らぎもせず、真っ直ぐに澱みを射ぬく鋭さを湛えていた。だから、その一度も聞いたことのない女の声に、僅かに動揺した。
「蝶々さんがそこへ行くのは」
 此方の動揺など気にも留めず、女が次の言葉を紡ぐ。女の顔を見た。白い肌。煌々と照らされ、生身の男に劣情を抱かせて止まぬ妖しげな美貌。
「市をそこへ連れていくのは」
 その目は、虚ろなどではなかった。

「闇色さんの、ためなのね」

 漆黒の眼が、ふわりと笑う。透明な声が、くすりと哂う。艶めかしい唇が、にやりと嗤う。ざらり、と心臓を舐められたような気がした。
「何を言う……」
 返す言葉はからからに乾いている。見透かされているのか。自分ですら、もはやわからなくなってしまった、この身の奥底に秘められた真意を。
「われは……われのために、彼の地へ、ゆくのみ。われの業を、解き放つために。われにも、われの業を疎み嘲笑った者たちにも、その他あまたの者たちにも、全てに等しき不幸を降らせ、平等たる世にするために……」
「違うわ……!」
 ひときわ艶やかで嬉しそうな声が響く。狂気じみた華やかな声と共に、女の腕が、するりと首元に回される。耳元を撫でる吐息は熱く、甘く、豊潤な死の匂いがする。
「違うのよ……うふふ……。蝶々さん、可哀相……! とっても、可哀相ね……」
 その腕を掴み、引き剥がせば、女がにやりと笑って言った。
「生まれる前の蝶々さん、なんにも悪いこと、してなかったのよ……何も、なぁんにも……」
 その目は、確かに常軌を逸した正気を湛えていた。美しい顔が、再びそっと近づいてくる。
「業なんてどこにもないのよ。それなのに、蝶々さんは、」

 ――らいに、たべられてしまうのね。

 囁く声がそっと耳を貫いた後、女の身体が離れていった。その笑ったままの口元からは、女には不似合いな赤い舌が覗いている。
 この女の舌は柔らかく温かいのか。それとも死人のように冷たいのか。
 今、この胸の内側をざらりと舐めるのは、死人かあるいはこの女か。
「われ、の、ためよ。すべて、スベテ、われのため。われの欲望のため……。われは嘘しか言わぬが、こればかりは本当のことよ」
 女は、けたけたと笑った。
「嘘つき。嘘つきよ。蝶々さんの心は、とても優しくて、そしてとても嘘つきなのね……」
 女が笑う。作り物の女が哂う。本当の女が嗤う。
「市も、うそつきだから」
 女の生暖かい指先が、この病に爛れ干からびた唇にそっと触れ、ゆっくりとなぞりあげていく。

「きっと、蝶々さんと同じ地獄にゆくのよ……」

 嘘などではないのだ。決して、嘘などではない。すべてが憎たらしく、この世のありとあらゆる光と正義に怖気が走るのだ。太閤のもとにいたときからずっとそうであった。数々の武勲に目を向けず、この腐りゆく身を嘲り、避け、陰口を叩く者たちのなんと多いことか。それらすべてが、憎らしく悍ましかった。
 何故自分だけが、と思っていた。業のせいだ、と自分を誤魔化していた。でもどこかで、いつかの時代を生きたかつての己の業など関係はなく、幼子の戯れのように理由なくただこの身が呪われただけなのだと気付いていた。だから業を憎めず、己を憎みきれず、代わりに周りを憎んだのだ。
 それが己なのだ。そうやってずっと、甘言を弄しながら恨みと澱みを腹にため、時が満ちるのを待っていたのだ。
「われの底は真っ暗よ。われは、われのために、この世を呪う。それだけのことよ……それだけの……」
 ――それは、まことか?
 胸がざわつき、肌が泡立った。気付いてはいけない何かに気付いてしまいそうだった。外で待つ、とだけ告げ、部屋を離れた。背後から、けたけたと、ひたひたと、女の笑う声が聞こえる。あの女は、ぽっかりと空いた穴に過ぎぬ。ただただ、底の国から溢れる絶望を吸い上げ、撒き散らすだけなのだ。根の国から這い上がる、死人どもをとどめることさえ出来ないのだから、そこには蓋も扉もないのだ。飲みこまれてはならぬ。誘われてはならぬ。
 ――ならば、われは何とする。
 あの女を超える絶望を撒き散らすことが出来るのか。あの女を利用し、万人に平等な断末魔をもたらすことが出来るのか。
「……すべて、義のため、三成のため」
 何度となく呟いてきた嘘を詠い、ふと自分の手のひらを見つめた。指先には、先ほど掴んで引き剥がした、女の手の生暖かさが残っている。思えば、あの女に触れたのは、それが初めてであった。そして、それが最後であろうことも、どこかで分かっていた。
 女を引き連れて、約束された地へと赴く。死地はただ静かに、哀れな羽虫を待っているのだろう。



(了)
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