Her-Lip-Stick

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  Her-Lip-Stick  

 豊かな乳房は、今は、おそらく今だけはあたしのものだ。

 あまり色気があるとは言えないあたしの身体の下で、悩ましげに身をくねらせる彼女に対して、いや、正確にはきっと、その柔らかな乳房に対して、不意に征服欲のような、あるいは所有欲のようなものが込み上げてきてたまらなくなってしまって、おそらくあたしには必要ないのであろう子宮の内側が酷く痛んで仕方がなかったので、あたしは彼女の乳房に口を付けて乳首に軽く歯をたてたのだった。
「あ、やだ、っ……痛いじゃない」
 濁りのない青い光が、はだけられた彼女の胸元を照らしている。彼女の仕事部屋であるこの分析室は、天井の明かりを消したとしても、設置されている様々な機械の光があるため、決して暗闇になどならない。むしろ明るすぎるほどだ。しかしそれが、こうした行為に及ぶには不向きな雰囲気かというとそういうこともなく、機械から放たれる青い光が彼女の白い乳房を照らし、無機質なその色の中で、汗ばんだ谷間に張り付く金色の髪が浮き立つ様は、非常に官能的で、抗いがたい蠱惑に満ち溢れている。
「……どうしたの? 弥生ったら、今日は随分と乱暴に私を抱くのね」
 乳首に軽く歯を立てて甘噛みしたあと、胸の谷間に顔を埋めたり、柔らかな乳房の肉を食んだりしていたら、彼女はくすぐったそうに笑って、いつものあの気怠げな口調でそう言った。赤い口紅でしっかりと彩られた彼女の唇が、目も当てられぬほどの魔性を湛えながらゆったりと動き、音のない言葉を生み出していく。

 ――きらいじゃないわよ。

 血の色などよりもはるかに鮮やかな色をしたその唇はまるで熟した果実だ。口に含めば深く甘い味がするような気がして、今度はその唇ばかりが気になってしまう。
「ねぇ――」
「うるさい」
 だから、何かを言い掛けながら身を起こそうとする彼女を、短い言葉で制してそのまま押し倒し、果実を咀嚼するようにその唇を貪った。
「ん、んっ……」
 彼女の喉の奥からくぐもった声が聞こえる。聞きようによっては、呼吸を阻害されたことによる苦悶の呻きに聞こえなくもない。けれど、彼女の唇と舌は淫猥に蠢き、唾液が混ざり合い絡みあう艶かしい音が、繋がったそこから聞こえてくるのだ。
 ああ、これは、食べることを禁じられた果実などではなく、見て、触れて、感じることのできる官能だ。食べても咎められることはないが、病みつきになってしまう麻薬のような果実だ。
 唇を離すと、透明な唾液が糸をひいた。
「んもう、そんなに激しくされたらお化粧が崩れるじゃない。さっきせっかく塗り直したばっかりなのに」
 唇にまとわりついたその唾液を、布やティッシュなどで拭う気にはなれない。もったいない。だから、舌を少し出して、自分の唇のまわりを舐めとった。彼女がいつも吸っている煙草の香りが染みていて、それは甘ったるい果実の味にはほど遠かったが、まぎれもなく、間違いなく、彼女の味そのものだった。
「まぁ、嫌いじゃないわよ。でもちょっと唇が乾燥してて、気になっちゃうのよね」
 そう言いながら、彼女は身体を軽く起こして髪を掻き上げた。物憂げな手付きだった。唇は真っ赤なのに、白衣の下のブラウスは深味のある臙脂色なのに、その爪に塗られたマニキュアの色は彼女の白い肌によく合った薄いピンクで、それがまたどうしようもないほどに心を捉えてやまない。血の色のような赤や、自分のこの大して美しくもない髪の色のような黒や、光を受けて輝くけばけばしいラメの粒などではなく、処女が好みそうな薄い色が彼女の爪を彩っているという事実が、果てしなく心をくすぐる。
 だが、そろそろここを退出しなければならない時間だ。時計を見ながら、名残惜しい気持ちを抱えたまま、あたしは彼女の上から身体を退けた。そのまま立ち上がり、乱れた衣服を手早く整え、シャツがどこかからはみ出ていないか身体をひねって確認する。
 そして、ポケットからシンプルなデザインの鏡を取り出して化粧が崩れていないか確認していた彼女に再び身体を寄せて、その鏡をすっと取り上げた。
「あ、こら、弥生!」
 抗議の言葉を聞き流しながら、鏡で自分の顔を確認する。あたしの唇に、彼女の口紅が付いていた。
「返してちょうだい……って、全然聞いてないわね」
 付着した赤い口紅は、彼女と過ごした先ほどまでの時間の揺るぎない証拠でもあるので、そのまま残しておきたいとも思ったが、これから仕事があるのでそうはいかない。
「まったく、もう……すぐに返してね」
 指先でその赤い色を丹念に拭いながら、ちらりと彼女のほうを見た。彼女はあたしへの抗議を諦めたらしく、今まで身体を重ねていたソファから手を伸ばし、テーブルの上の化粧ポーチを掴んで引き寄せているところだった。
「それ、落ちなかったらメイク落としのシート貸してあげるわ」
「大丈夫。もう取れたから」
 唇についた赤い色をしっかりと拭い取ってから彼女に鏡を返し、タイミング良く彼女が差し出してくれたティッシュで指先を拭いながら、彼女の顔を横目でそっと見て、それから鏡に映っていた自分の顔を思い出してみた。
 彼女に比べれば随分と色気のない顔だと思う。同僚の一人である、きゃんきゃんと喚く子犬のような男には、男勝りでおっかないだのなんだのと言われたこともある。別に、だからといって、どうということはないのだけれど。
「ほら、これ使いなさいよ。私の貸してあげるから」
 ポーチの中を暫くごそごそと探っていた彼女が、こちらに何かを投げて寄越してきた。筒状のそれをしっかりと受け取ったはいいが、それが何なのかわからず、コンピュータの画面から溢れる光にかざしてみる。濁りのない銀色がきらりと輝いた。
「何これ?」
「リップクリーム。一応薬用だから。弥生ったらお子様が使うようなやつしか持ってないでしょう? それねぇ、結構いいわよ。色も付いてるし。ぷるぷるの唇になって、次来たときにその唇で私にキスしてちょうだい」
「あ――意外と派手じゃない」
 普通の化粧品みたい、などと考えながら銀色の蓋を外してくるくると回すと、想像していたものとははるかに異なる薄いピンク色が見えてきた。彼女の爪の色に、少し似ているかもしれない。
「派手なのだと嫌がるでしょ。その色ね、私あんまり使わないから、しばらく持ってていいわよ」
「うん、ありがと。……じゃあ、また」
 あとで早速試してみようと思った。次にキスをするときまでに、乾燥して少しぱさついてしまっているこの唇が、わずかでも柔らかくなればいい、と思った。そして、子供のくせに変なところで目ざといあの同僚の男が、このリップクリームについて何かからかってくるようなことがあれば、雑誌で頭を叩いてやろう、とも思った。
「ええ。またね、弥生」
 含みを持たせた言い方をする彼女にくるりと背を向けて、あたしは分析室の出入り口へと向かう。静かな音を立てて開いた自動ドアをくぐって廊下にでたとき、かちりという微かな音が背後から聞こえた。

 じきに、この部屋には煙草の匂いが満ち溢れるのだろう。

 閉ざされた鈍色のドアにちらりと目を向け、先ほどまで触れていた乳房の柔らかさと、しっとりと蠢く唇の感触を回想しながら、次にあの胸に顔を埋め、あの唇に自分の唇を押し当て、舌を絡ませ合うのはいつになるのかと考え――それはきっとすぐに訪れるのだろういうことに思い至り、あたしはほんの少しだけ唇を歪めて廊下を歩き出すのだった。


(了)
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